昭和40年01月23日 朝の御理解
昨日、長女が善導寺のお参りの帰りに、菜種の花をひとにぎり手折ってきた。「ほう、菜種の花が咲いておる。」やはり天候異変ですね。暖かいですから、冬に狂い咲いたわけですね。まあだ、一月だというのに。菜種の花が咲く。本当に神様の御都合でです、ちょっと暖かいとすぐ狂い咲きをする、私の心が。神様の御都合なのに、もういかにも時期が来て咲いたように思い違えることがあるのですね。
私共でもこうやって、いつも紋付き袴で出させて頂いて、ぜんとも、まあ、紋付き袴に対してでも敬意を表して下さる。紋付き袴に対してから敬意を表しておられるのに、こちらが敬意を表されておるような思い上がった心が起こるですね。神様が「慎めよ」と。紋付き袴を付けさせときゃ、慎みも深うなって行儀も良くなるだろうというので付けらせてござるたい。紋付き袴を付けると、もうひとかどの先生になったごたる気持ちになる。本当に人間の弱さである。
「信心するものは何事にも真心(しんじん)になれよ」と仰る。何事にも真心にならせて頂かねばならない。何々長と長が付くようになると、もうほんとにすぐいわば人を軽う見るようになる。本当に人間ばっかりは始末が悪い。困ったものだ、と神様がお思いになるだろう、と思う。私もひとつ、先日失敗したことがある。もうほんとに段々、日を追うてから、ハア、これじゃあ本当に相済まん事だったと思うんですね。
二十一日のお月次祭の、親教会の総代会と壮年会の発会式がございました。お祭りの後に。で後、ご直会になり、御神酒が段々回ってまいりまして、ちょうど親先生がこちらへ座っておられる。私共はそれから四、五人下のほうに座っておった。善導寺は必ず歳順に座ることになっておるです、昔から。ちょうど私の向かい側が、岸先生が座っておった。ほいでもう御神酒も段々進んでから、私もちょうど頂きやめておった時、親先生はもう、ご飯になさっておられた時です。
ある一人の信者さんが、へんおくりにまいってみえられた。そいでその田舎の人は、御神酒をさすのが礼儀のように思っているんですね。実は、あれは間違いですね。あれはやはり、目上の人から、いうならこう下げるのが。けれどもまるきり、どげな目上の人でも、自分が飲んだ杯をさすのが、あげるのが礼儀と思って心得ておる人もあるわけなんですよね。
後から参って来た方が、もう先生はご飯をあがっとられるのに、「先生、いっちょう差し上げましょう」ち言うてから、下のほうから言われるんです。親先生はもう頂いとられるもんですから、「私はもういかん、ご飯頂きよるけんで」とこう言われるし、私はちょうど真ん中におりますもんだからですね、その方の杯を私が途中で受けて、「なら、私が親先生の代わりに頂こう」と言うて、頂いたんです。
そしたら向かいから岸先生が言われるんですね。「えらい大坪さん、偉うなったの」ち言われる。その時、ヒャッとしたんですね、私もやはり。そして少し後から来た人が酔いが回ったら、またわざわざ杯を、ご飯食べ終わっておられる親先生のところへ杯を持ってきてです、また親先生に杯をやられるんですね。先生は杯を受けられるんです。ハア、もう本当に私としたことがと思うわけなんですね。人間がおっちょこちょいに出来とるもんだから。私ならそれを喜ぶかもしれませんよね。
本当にもう代わりに私が頂きましょうと言うてくれるなら、私なら喜ぶかもしれんけれども、やはり親先生は、そりゃあんまりどうした礼儀知らずだろうかとお思いになっただろう。また岸先生が言うように「えらいあんた一遍に偉うなったの」と言うたのも、あれはただ皮肉だったなと、後になってくればくるほど、それが心に掛かるんですね。椛目の人は、私を始どうもそういうところに軽々しいところがある、おっちょこちょいのところがあるんですね。信心させて頂く者は何事にも真心になれよと仰る。
これももう七、八年も前だったでしょうか。私と久保山先生で、何かここの御用のことで善導寺におかげ頂いた。親先生と親奥さんと火鉢を囲んでいろいろそのお話させて頂いておる時に、私が親教会のことを、こんなに思うておるという事を表現されるために、久保山先生が仰ったんですね。「たとえです、たとえ親教会が寂しゅうなっても、私が居るからには、絶対、親教会には、親先生たちには寂しい思いをさせるような事はせん、とうちの先生は言いよんなさるですよ。」と久保山先生が仰ったんです。
その時、親先生の顔色がサァッと変わって、ハッと私は思うたんです。それから十日か二十日ぐらいしてからでした。「あん時、うちの家内は二日間も寝ついたもの」と仰いました。もう考えてみると、本当に迂闊なことですもんねえ。親子の仲だけれども。そりゃあ成程、私はそう思うとるんです。そう思うとる事を言いもするもんだから、久保山先生は、うちの先生は善導寺のことをこげん思うとんなさいますよ、ということを言うために仰ったことなんですけれども。
親先生、親奥さんには、そうに響いたわけなんですね。どうしたこっちゃろうかじゃない、やはりこちらの慎みが足らんとです。親奥さんを二日間も休ませるようなこと。なんというその親を親とも思わない、なんと親教会を思うておるか。こげんなめられてしもうちゃあというのが、親先生、親奥さんのお気持ちじゃなかったろうかと思うのですね。信心させて頂く者はですね、例えば、私共の場合なんかは、そりゃ椛目に確かにひとつの比礼があることはありますけれども。
さっきから申しますように、この天候異変で菜種の花が狂い咲きしておるようにです、神様の御都合で椛目にこうしたひとつの御比礼を頂いておるのであると私は思わなければいけないと思う。神様の御都合なんだ。先生が偉いからでも、信者さんがたが出来とんなさるからでもない。それこそ天候の具合であり、神様の御都合なのだ。これを、この前の月次祭の時にですね。
椛目のものばっかり、関さん、熊谷さん、高芝さんがずらっと一番前に並んでおった。したら私は耳が遠いもんだけん、何か高芝さんが言いなさったけれども、聞こえんかったから、「なんの」ち言うたら、「いいえ、ここはみんな年寄りばっかり、ち言いよります」。成程、お年寄りばっかりですけれども、いかにもやはり、これは軽う見た言葉ですね。本当に言動を慎まなければならない。
慎まなければならないから慎むのじゃあない。私共がいつもです何事にも信心になっておかなければならないという事。天地の親神様の目からご覧になりゃ一難儀な氏子にすぎない。ある時これは四神様のご時代。ある信者が参ってきた。四神様の前でお取次頂いてから、「私は何々教会の世話役でございます」と言うた。お届けをした「私は何々教会の世話役の何々という氏子でございます」とお届けしたら四神様がおっしゃられた。「往々にして世話役がね、世話をかける役になるからの」と仰ったそうです。
「世話役が教会の信者のお世話係ではなくて、教会のお世話になる役になるからの」と仰ったという事です。「大坪さん、一遍に偉うなったの」という意味のこと。本当にこれは私としては、岸先生の言葉ではない。神様の声として頂かなければならない。私を通り越えてから、また後から、親先生のところへ杯を持って行かれたその人の姿は、もうその方の姿ではない。神様の姿である。
目の前で、こげな恥ずかしい事はないじゃないか。というその、思い上がったことかと神様が言うて聞かせたり、見せて下さったような気がして、それが日を追うにしたがって、何日かになりますが、それがこれに引っ掛かってなりません。「さあ、どうぞ」成程、私は本当にクソ遠慮はいやですね。得々としてから前に出てくる人がある。この辺には、いわゆる謙譲の美と申しますか、自分を知るとでも申しましょうか、ね。そしてそこに慎みをもってのそれでなからなければならないという事。
先生と言われるようになるなら、もう、羽織袴に対してから、先生と人が言うて下さっておるのに、もう先生になり、親先生と言われりゃ、もう本当に親先生になったような気持ちになってしもうてから、失敗をする。総代さん、幹部と。本当に信心が総代になったごたる気色になる。信心がもう幹部のごとなったような気がする。総代さんと言われれば言われるほど、幹部と言われれば言われるほど、先生、親先生と言われるようになれば、なるほどにです。
それはひとつの、いつもがたあるかと言われるような言葉に響いてくるような心の状態であらなければいけない。神様の目からご覧になれば、いつも難儀な一氏子にすぎないのである。神様の目からご覧になれば、いよいよお手間をかけておる私共であるという信心の自覚というものがないと、私のような失敗になってくるのです。親に寂しい思いをかけたり、または親の心を傷つけたり、または親じゃない、神様じゃない、人間同志からでもです、「あれはこの頃もう総代になった。
総代さんとこっちが言えば、もう良か気になってから、ほんなこつ総代になったごたる気もちでおる」と、例えば、いっぽんからでも思われるような事ではいけん。「出る釘は打たれる」という。いよいよ私は謙虚になる。いよいよ自分を分からせてもらい。本当に私共が、ここでは私をはじめ、そういう意味合いにおいて人間が軽々しゅうに出来ておる、という事は信心が出来ていない証拠。
自分というものが本当に見極めができていない証拠。私は今日は、とことんこういう所にですね、ひとつ心を留めておかげを頂きたい。そして謙虚な思いであるという事がです、いわば頭を、辞を低うしておるという事がです、どのくらい人に与える感じが良いか、神様がそれを喜んで下さるかという事をです、心からそうあらせて頂いて、そういうおかげを頂きたいと思う。
今日はね、しきりにその昨日、一昨日のことが心に掛かるんです。特に、特にここでは、やはり「類は類をもって集まる」で、私自身がそんなことだもんですから。成程、このお広前では皆さんが、成程おかげ頂いとります。けれどもそれはです、私共が信心が出来ておるからじゃあない。天候の具合で狂い咲きに咲いておる菜種の花のようなものである、と私共は思わなきゃならん。ね、ですから、それでは本当な実りにはならない。私共がどこまでもです。
謙虚な思いで、何事にも信心にならして頂いて、本当に地に平伏(ひれふ)した心持ちでです、咲いてそして実るというおかげを頂くまではです、頂くまではじゃない、頂かなければ本当の事ではない。神様の御都合で、ただおかげを見せておって下さるだけの事。それにも自分の信心が出来たから、おかげを頂いとるような思い方が、私共の上にあるとするならばです、これは大変危ないことであり、慢心は大怪我の、今、もとが出来ておる時と悟らせて頂いてですね、おかげを頂かなければならんと思うのです。おかげ頂かなきゃいけません。